キプールの記憶
監督:アモス・ギタイ
出演:リオン・レヴォ/トメル・ルソ/ウリ・ラン・クロイツナー
2000年/イスラエル・仏・伊/118分/☆☆☆☆☆
批評 凄まじき戦争映画
大通り沿いの、ガラス張りの明るい家。
ベットの上にぶちまけられた原色の絵の具。その上で抱き合う二人。絵の具はやがて混ざり合い、そして暗い色になって行く...
ワインローブとルソは、警報を受けて車で赴任地へ向かう。
その日は、イスラムにおいて重要な日であるラマダンの日。にもかかわらず、車内のラジオは戦争の始りを告げていた。
どこかピクニック気分のような二人は、しかし原隊に合流することが出来ず、途中でであった軍医と共に空挺救助部隊と合流する。
いわゆる戦闘シーンというのはない。
敵兵は一切出てこないし、画面に映る人間は戦場 = 大量殺人現場での負傷兵と、助かりそうな負傷兵を助ける = 助かりそうにない負傷兵は見捨てるという作業に疲れ果て、それでもやらねばならない空挺救助部隊の兵士のみ。
それを、まるでドキュメンタリーのようなロングショットと、ステディカムによる不安定な画と、これ以上説明しなかったらなにがなんだか分からなくなる、というレベルまで説明を排除した物語と合わせて観客に見せる。
ただひたすらに。見ている人間が、登場人物のように疲れ果てるまで。
もっとも強烈なのは (明白な説明はないが、おそらく) ゴラン高原での、第四時中東戦争でイスラエル軍が戦線突破を成功させた戦闘をモデルにしたとおぼしきシーンだろう。
救助部隊が負傷兵を抱え、ぬかるみの中を進む。否、進もうとしながらも、ぬかるみに足を取られてまったく進めない。その光景を、カメラは引いたまま長回しでただひたすらに撮り続ける。
顔のアップや、悲壮な音楽もない。あるのは、時折聞こえる砲撃音と悪態を吐き、狂気に片足を突っ込んで言動がおかしくなって行く味方の台詞のみ。
ようやくぬかるみを脱すると、負傷兵は危篤状態。その上ヘリの脱出時刻になってしまい、兵を見捨てねばならなくなる。
この無力感。これこそが本作のすべてだ。
終わりの無い救助活動の中、ヘリは撃墜され主人公も負傷する。
それは今度は自分が救助される側になるということだ。
無限の連鎖の中にいるという無常感を、ロングショットで取られた画が連鎖の中にいない、傍観者に過ぎない観客を襲う。
負傷し、病院に担ぎ込まれ、やがて基地に戻る。
無人だった基地に人が戻ってきていることで「終戦を迎えたのでは?」と思わせるが、そこに説明はない。
戦争が終わったから帰宅するのか、それとも負傷したから帰宅するのか。
観客に分かるのは、来たときに乗っていた車で、恋人の待つ家に帰る主人公の姿だけだ。来るときは一緒だった男が、帰りにはいないという事実だ。
そう遠くはないと思われる家は、大通り沿いの、ガラス張りの明るい家。
ベットの上にぶちまけられた原色の絵の具。その上で抱き合う二人。絵の具はやがて混ざり合い、そして暗い色になって行く...