(劇)レイオンボウ城!第58回公演
鯉の嵐!
作・演出:斉藤アーサー
出演:斉藤アーサー/斉藤ベアトリス/沼田コンスタンシア
☆☆

批評 歪に笑えちゃ駄目でしょう

 キャラクター文化に一石を投じ、ネズミもネコもクマも妖精も MS も、それがキャラクターであるからという理由で前面否定する話。
 ところで、江戸時代くらいまで、不倫...はどうか知らぬが (夜這に一夫多妻という文化背景から想像するに、珍しいものではないと推測できるが)、男色はさして珍しいものではなかったと思われます。
 なのに心中するほど思いつめるって、すごい掴みだっ!?


 作品最大の問題は、明白な定義が無いまま、「なんとなく」皆が納得している言葉をあやつってしまっている事が、作品最大の失敗だと思う。

 「キャラモノ」という台詞があるが、結局「キャラクタ」って何?
 作中では「清らかだ」「人を傷つけない」とか色々言われているが、本当?本当ならその時点で私の想像するキャラモノとは大分違う事になるのだが。

 作中でも出てくる、「機動戦士ガンダム」のガンキャノンなんぞ、作中で「誰も望んでいない」と一刀両断されている「ドロドロの背景持ち」だ。所詮兵器なのだから。
 崩壊家庭 (アムロ) やマザコンでシスコンの復讐鬼 (キャスバル) というのは、「ドロドロの背景」をもった登場人物ではないのか?

 後半になって、「生身の人間を見ろ」という主張が入るが、これは観客に対する挑戦だろうか?
 「人間の顔についているのはただの感覚器」これはそのとおりだと思う(なにせ私は、脳を活かし、生かすために生身の肉体がついていると考えているような人間だ)。
 しかし、その前提にある「画に書いてあるのは、目でも口でもない、黒い丸と線だ」という主張には、待てと言わざるをえない。

 想像力を否定し、現実を見ろと、想像力を駆使して見る舞台の、創作された物語の登場人物に言われる事か?
 観客への挑戦でなければ自己否定か?

 その上、想像された物語の想像された登場人物が、「負け戦だ」「勝ったのは農民だ」と。口走る。
 創造された登場人物を否定する創造された物語の創造された登場人物が、別の、想像された物語の想像された登場人物の、創造された台詞を口にするってか!?

 悪い冗談か!?
 性質の悪い嫌がらせか?

 可愛いものに癒されたいという台詞が出てくるが、「癒し」って何?(悪いが、本気で分からん
 想像された物語、想像されたキャラクタの否定と、宗教の否定は何が違うの?(私は、いわゆる宗教というものの一切を信じていないが、人が信じるのは自由だと思う。無論作者が、宗教も全面悪であるという主張をするならば、それはそれでかまわないが、作品にまた別の問題が露呈するだけ)
 生身の人間が、本当にキャラクタを演じていないという確証を得る方法は?(ジョハリの窓を出すまでも無く、自分も、ましてや他人を見抜くことなど出来ない。見抜けない部分は想像力で補うしかないが、想像力は作中で否定されてしまっている。生身の人間の真実の姿を見抜くのはかくも難しい)
 他にも、問題点は山盛りだが、自己否定のごとき暴走から見れば些細な問題だ。

 過去へ回帰せよ!と、声高らかに説教しない (控えめに、そう言いたいんじゃないかと思われる場所はあるが) のは良かったが、言葉を定義しない、あるいは出来ていない論理を展開してしまい、突っ込み満載になってしまっている。
 そう感じさせる内容だった。

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